今年も “キング・オブ・ロック” 忌野清志郎の命日(忌野忌)がやってきました。月日が経つのは早いもので、2009年5月2日の逝去から数えて十三回忌。彼の歌と詞に多大な影響を受けた身としては、このタイミングで墓参せずにいられるものか。
初代自転車名人でもあったキヨシローの墓所へ参るならば、やはりサイクリング墓参でしょう。そこで、忌野清志郎ゆかりの地を経由しながら高尾霊園の墓所へ至る走行ルートを引き、命日の前日に走ってきました。この聖地巡礼&墓参ライドを、キヨシローの歌に乗せながら振り返ります。
スタート地点に定めた渋谷は、朝方とあって人影まばら。前夜に降った雨の痕跡をかき消すような青空が広がり、爽やかな空気が漂ってます。雨あがりの青空ならぬ「雨あがりの夜空に」を口ずさみながら、渋谷センター街へ向かうとしますか。
センター街に入って最初の交差点を右折し、ライブハウス “屋根裏” 跡地へ。キヨシロー率いるRCサクセションが活動し、ブレイクを果たした地であります。いまはプリント屋さんが建つ同地を7:00に出発し、井の頭通りを北上。聖地が点在する国立へ向かうことにします。
しばし井の頭通りを進んだ後、甲州街道で西走して上北沢から東八道路へ。脳内BGMは「甲州街道はもう秋なのさ」いや夏なのさ。玉川上水に沿った延伸部分(放射5号線)が完成したことで、三鷹や調布へアクセスしやすくなりました。30km/h以上をキープして快調に西走。
そして8:00頃、サイケデリックな三鷹天命反転住宅の前へ。建築家の荒川修作とマドリン・ギンズが設計した集合住宅で、居住者の潜在能力を引き出して “死という宿命(天命)を反転させる” そうです。ちなみに賃貸物件であり、ショートステイやテレワーク借りもできますよ。
さて、東八道路を西端まで進んだ後は、新府中街道を北上しながら国分寺崖線を登坂。坂の頂上から立川国分寺線(都道145号)を西走すると、たまらん坂に差し掛かります。かつてキヨシローが暮らしてた界隈であり、名バラード「多摩蘭坂」の舞台にもなった聖地。
ここで道の反対側へ渡り、“多摩蘭坂を登りきる手前の坂の途中にある” たまらん坂の標柱にあいさつ。明日はファンの献花であふれるだろうと思い、小ゴミを拾ってから先へ進みます。坂を下ってから旭通りを北上し、途中で脇道に入ってJR中央線の手前まで進むと……。
これまたキヨシローが1973年頃に住んでたコーポ池谷の前へ。著書「十年ゴム消し」によれば、102号室で3人暮らしをしてたそうです。所属事務所に仕事を干されてた不遇時代の棲家。アコースティックギターからエレキギターに転向した時期でもありますね。
そんな70年代に思いを馳せながら、国立駅前を経由して富士見通り〜立川国分寺線を西走。こんな一方通行路が都道145号とは! 幅狭な生活道路ゆえ、フォーク時代の「宝くじは買わない」や「ぼくの好きな先生」を歌いながら、のんびり進むことにしますか。
錦一丁目交差点から立川通りを南下し、日野橋の南詰で多摩川右岸サイクリングロードへ突入。まだ朝の清々しい空気が漂ってます。そろそろ時刻は9:00、自宅を出てから「2時間35分」を過ぎたところ。ここから多摩川と浅川の合流点まで南下します。
なぜなら、多摩川と浅川の合流点の近くにキヨシローの母校・都立日野高校が建ってるのでした。が、姿が見えるのはプレハブの仮設校舎だけ。代表曲の1つ「トランジスタ・ラジオ」の舞台になった校舎は、残念ながら解体されてしまいました。これも時代の流れさ。
そのまま日野高校前から浅川の左岸を遡上し、八王子まで西走します。浅川の両岸に広がる風景は、都心から40km程度とは思えないほど旅情あふれる長閑さ。栗原清志少年が現れそうな、遺作「Oh! RADIO」のミュージックビデオに通じる雰囲気が漂ってます。
やはりノスタルジックな姿形の平山橋で浅川の右岸へ渡り、その1つ上流の滝合橋で京王線を越して北野街道へ。この道を9kmほど西走すれば高尾です。とはいえ、延々と登坂が続くので泣きが入りそうになりました。丘陵地で前53/39±3Tと後11-25Tの組み合わせは、やはりツライ。
インナーローでセコセコと低速走行を続け、10:20頃に高尾駅南口へ到達。駅前の花屋さんで、墓前に供える花束を購入します。カーネーションに、アネモネに、
忌野清志郎が眠る高尾霊園は、もう目前だ。墓所に通じる激坂アタックへの準備を済ませ、10:30頃に高尾駅前を出発します。なあに、どんな急勾配も「すべてはALRIGHT」と行こうじゃないか。内心ちょっとドキドキしながらペダルを回し、次回の[後編]へ続きます。
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